2010 年 1 月 のアーカイブ

こちら編集部〈7〉 門松の一里塚、数えてはやン十年

2010 年 1 月 7 日 木曜日
編集長:
女記者:
見習い:
皆さん、明けましておめでとうございます。今年も「こちら編集部」をよろしくお願い申し上げます。
編集長: とは言うものの、わしとしては「めでたくもあり、めでたくもなし」というところやな。
見習い: 一休さんですね。
女記者: お、やるじゃない。
見習い: 僕だって少しは勉強してるんですから。「門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」。編集長はかなり来ましたものね。
編集長: どういう意味やねん。確かに折り返し点は過ぎたけど、まだ先はあるわい。わしより女記者君の方が一里塚に敏感……(ガッシャーン)い、い、痛い。それに音がうるさい。一体何を持ち出したんや。
女記者: ふふふ。ブリキで張り扇を作ったの。今までのボール紙より強力だし、音も凄いでしょ。
編集長: しょうもないもんをバージョンアップさせるな。
女記者: デリカシーに欠けるような発言に対しては、どしどしお見舞いしますからね。
編集長: おお、怖ッ。それはそうと、門松には竹が3本使われてるわな。
見習い: 焼酎のコマーシャルじゃないけど、主役の松より目立ってますよね。
編集長: あの竹、切り口が斜め切りされてるやろ。ところが昔は真横に切られてたらしい。ま、普通はそうするわな。それを斜め切りしたんは徳川家康やという説があるんや。
見習い: へえ、意外なところで家康が登場するんですね。
編集長: 話は1572年(元亀3)の三方ケ原の戦いに遡る。この時、家康は信長軍と組んで武田信玄と戦ったんやが、散々に負けて、這々の体で浜松城まで逃げ帰った。そして「空城の計」というて、城の門を開いて篝火を焚かせ、さあ、いつでも攻めてこいという体勢を取った。こうなると追ってきた方は何か企みがあると思うてしまうわな。窮余の策やがこれがまんまと成功し、武田勢は攻め込まず城の近くに陣を張って待機した。ここで武田勢が一気に城攻めをしてたら、浜松城は落ちて家康は滅んだやろうと言われてる。
見習い: そうなってたら日本の歴史は随分違ったものになったでしょうね。
編集長: そらそうや。豊臣の天下が続いてたかも知れんし、首都は大阪になってたかも知れん。そうなってたら標準語は大阪弁で、わしなんか今頃、言葉博士とか言われて……(ガッシャーン)、あ、あ、痛いし、耳に響く。
女記者: 話が長い上に横道にそれてどうするんですか。見習い君も変なあいの手を入れないの。
編集長: おお、まだジンジンするわ。ま、それでお互い対峙したまま新年を迎えたわけや。すると家康の元へ武田側から一枚の書状が届いた。開けてみると一つの句が書いてあった。「松枯れて 竹たぐひなき 旦(あした)かな」とある。松とはもちろん松平の出である家康のことやわな。竹は武田や。つまり家康は枯れて、武田がたぐいなき勢いを得た正月のめでたさよ、というわけや。
見習い: 正月早々強烈な嫌みですねえ。
編集長: ところが家康の側近に機知に富んだ切れ者がいたんやな。濁点を工夫すると「松枯れで 竹だくびなき 旦かな」として送り返したんや。要するに、松は枯れないで、武田は首がない正月やというわけや。見事なもんやな。
女記者: 何だか、いかにも後の時代に作りましたって感じの話ですね。
編集長: 真偽の程はわからんけどな。それで家康はというと、城門に飾ってあった門松の竹をすべて斜め切りにした。武田信玄の首を思い浮かべてたことは言うまでもないやろ。
女記者: 鬼気迫る情景ですね。
編集長: それ以来、家康は斜め切りした門松の竹を見ては「打倒武田」を誓うとともに、大敗した自分への戒めにしたという。その風習が家臣にも広がり、やがて門松の竹は斜め切りしたものが一般的になったんや。当然やが、武田家ゆかりの地ではそれはせん。
女記者: それがそうでもないんです。ネットで調べてみたら、甲府のデパートやホテルでも斜め切りしたものを飾ってるんですよ。
編集長: ええ、ほんまかいな。意地見せんとあかんやないか。
女記者: さすがに信玄を祀ってる武田神社は、真横に切った竹の門松を飾ってます。
編集長: おお、そうこんとあかんわな。最後の砦みたいなもんやからな。それはそうと今回はわしの独壇場になってしもたな。しゃべり過ぎて喉が渇いた。見習い君、ビール出してきて。新年会しょやないか。
女記者: 私は遠慮しておきます。これから初詣に行くんです。
編集長: 愛想ないのう。そんなんやったら今年も結……(ガッシャーン)く、首を打つんはやめて。わしは武田やない。
女記者: デリカシーを欠くとどうなるか、進言させていただいただけです。
編集長: 今年も猛々しい年になりそうやなあ(コテン)。